HUMAN HISTORY

人や企業とのご縁

企業様とのご縁

弊社は過去に、スーパー紀伊国屋様、銀座三愛様、東急109様、西武商事様、銀座ライオン様、青山ナチュラルストア様、東急東横線様、大正大学様、鈴屋様、缶詰の国分様、ベルコモンズ様等々、多くの事業者様とのフラワービジネスに協力させていただいております。今後も新たな商業施設運営事業者様との取り組みをいたします。


数々の皆様とのご縁

松下幸之助松下電工創業者

 私は小学生の頃から尊敬しておりましたが、
あるとき、偶然ホテルニューオータニのエレベーターで相談役と
ご一緒になり、ご挨拶させていただいたことからの縁です。
その後も、そのご縁により松下電工での講演会に登壇させて頂いたりしました。
今も相談役の「素直」と書いていただいた色紙を見ては、人生を思考したり、相談役のテープを聞き多くの著作を読まさせていただき、今も私の人生にとってかけがえのない存在です。


 

藤田田ご夫妻(日本マクドナルド創業者)

 私が、世田谷の豪徳寺でリヤカーを引いて花の行商をしているときに
藤田田ご夫妻や奥様の御姉妹にも
花をよく買って頂きお声がけをしてくださいました。
藤田さんがまだマクドナルドを創業していない時期です。
藤田さんからは
「君は日本一の花屋になるよ」とおっしゃっていただき

大変励みになりました。
その後も藤田さんとのご縁は続き、「ユダヤ商法」を教えて頂いたり
マクドナルドの店舗開発に私も何度も協力させて頂きました。


鍵山秀三郎イエローハット創業者

 残念ながら2025年1月にお亡くなりになりましたが、数年前にも直筆のお手紙を何度もいただき、相談に乗って頂きました。鍵山創業者の有名なお言葉は「凡事徹底」ですが、 私には、商売は「伸縮自在」が大事と教えてくださいました。


横井英樹東洋郵船社長

 世間的には批判的な評価も聞かれますが、私にとってはこの方の恩義は生涯忘れられません。赤坂で花を売っている時代のお客様としてご縁させて頂きました。売れ残ったお花を全部お買い上げくださったり、商売は「運鈍根」が大切と直に教えて頂いたり、ご自宅にお招きしていただりして、特に「親への孝行」を勧めてくれました。


 

菅原光夫弁護士

 大変お世話になりました弁護士さんです。菅原先生からは物事の解決にあたっては必ず「原理原則」の筋道で考えていく大切さを教わりました。


長嶋茂雄巨人終身名誉監督

長嶋監督からは、商売の真髄を二つお教えくださいました。 一つは、徹底的にお客様を喜ばすこと。 もう一つは、必ずビジネスとして儲けること。でした。 松下幸之助さんも、 利益を上げない商売では社会貢献などできない罪悪だと 言い切っておられますが、まさしく同じ思想、境地だと思いました。


出光佐三出光興産創業者

 

この方に実際にお会いしたことはないのですが
この方の唱える「士魂商才」に非常に感銘を受けましたので
やはりこれも一つのご縁だと思い記させていただきました。
商売人であっても武士道の気構えを持ち商道を歩むことが
大事ということかと思います。


他 多数の皆様方

  • 他にも、実業界に限らず、メディア業界、スポーツ界、芸能界等々
    有名無名を問わず、色々な方々のご親切とご縁で
    私の人生は成り立ってきたと思って感謝しています。
     
    先人や縁をさせていただいた方からのご指導を受けた私自身のモットーは
    「正々堂々」
    「困ったところにニーズ(市場)あり」です。

  • これからも、社会貢献できるビジネスに打ち込んでいく決意です。

 
 

2014年
本田悦郎内閣官房参与(右)と
渥美和彦東京大学名誉教授
御夫妻
(御茶の水博士のモデルの一人)
音無は、当時の渥美和彦記念財団の筆頭理事でした。

2015年 
安倍洋子様
(安倍総理の御母上 
 前列中央左)

2016年 6月
中山恭子先生(国会議員)と

2018年
堺屋太一先生
(音無の私塾の最高顧問)と
児島さん(元渥美財団書記局長)

私の家族との縁

私は和歌山県に生まれました。
 
父は武和、母の旧姓は音無と申します
私は、母が亡くなった後、
母の姓「音無」を途絶えさせることが忍びなく
母の姓に改姓いたしました。
 

父の先祖

父の先祖は、過去帳で調べてみると、
遠江国から鎌倉時代に三重県に渡ってきたとありました。
わかっている先祖の名前で一番古いのは下桐大夫でした。
途中、江戸時代には武和と名乗っています。
最初の頃は武和平蔵、
江戸末期には武和源之助等々の本名も載ってあります。
 
また、武和家の過去帳を見てみていて不思議だったのは
ある方の戒名に「花屋宗林信女」という文字があり、
何かしらの縁深い気がしました。
 
父は、戦争時は医療従事者として従軍していました。
満州での爆弾で負傷して、一旦本国に帰還し治療後
東京で近衛兵に属しておりました。
 
父の生前に、戦争中の体験を聞いたことがありますが、
爆弾が落ちてくる時の感覚は、
氷水を全身に浴びたような感じだったそうです。
 
中国では、翌日銃殺される中国人の捕虜たちが気の毒になり
夜中に何人ものロープを切って逃したこともあったそうです。
しかし中にはそれでも逃げなかった捕虜もいたそうです。
上官に見つかれば間違いなく軍法会議ものだと思います。
東京では東京大空襲に遭遇し、焼夷弾で視力が極端に落ちてしまい
医科大学への志望を諦めたそうです。
B29は蚊取り線香のように周りから住民が逃げられないように
焼夷弾を落としてきたそうです。
 
戦後は元々、達人レベルの武道家でもあったので
合気道の創始者植芝盛平翁の開設した熊野合気道本部の
創立時の主力メンバーでもあり警察官たちに武道の指導をしました。
創始者の植芝翁は、私の実家にも度々寄ってくれてました。
いつも玄関で杖をつき「たのもう」と言って入ってきてくれました。
幼い私のことも遊んでくれ
ある時は、翁は服を捲り上げて左腕の筋肉を見せてくれました。
その筋肉が一瞬で砲丸投げの球のように
膨らませて見せてくれたことを覚えています。
右手ではなく左手の筋肉なので余計に驚きました。
父の弟子には、巨人軍の王選手に一本足打法を指導した荒川さんや
当時のプロの力士などがいます。
 

母の先祖

母自身は、目立つことや自慢話をするタイプではなかったため
音無家の方のことはほとんど知りませんでしたが
私自身、音無家を継ぐことから、音無家の歴史をいくつか調べて
大変驚きました。
音無家は、数々の古文書文献にも出てくる
古代大和国の頃から続く家系でした。
先祖は北九州の遠賀川から関門海峡を渡り、大阪府八尾市亀井町から
奈良県に来たという説があります。
大和での初代熊野国造大阿斗足尼命(おおあとのすくね)の末裔であり、
西暦795年にそれまで名乗っていた姓「熊野直(くまのあたえ)」を
下賜された「熊野連(くまのむらじ)」と変えています。
最初に熊野連を名乗ったのは「蝶」という人物です。
その後、11世紀終わり頃に、
その姓から音無とはじめに名乗ったのは「音無盛秀」という方です。
朝廷から爵位もいただいた人物です。
音無家は熊野本宮大社の歴代の神職の家系で
本宮の地は元々「音無の里」と呼ばれ、熊野詣には歴代の天皇や貴族が
参詣され、
また平安時代には「法華八講会」という仏教の修行者たちによる法会も盛んに行われていたようです。
 
以上 音無篤様の書かれた本も参考にさせていただきました。
 熊野本宮-音無氏の研究
 
 
母方の母の家系は「玉置家」で士族で
日本を代表する古代神社として有名な玉置神社の家系です。
こちらも織田信長等も関係しているようです。
玉置神社は、神武天皇御東征の途上にある玉置山にあり
熊野三山の奥の院、大峰修験の行場の一つです。
生前、母に聞いたところ、
奈良県で初めて寺子屋を開いたのも玉置家だったそうです。
玉置家の方はまだ調べていないのですが
十津川村や本宮が洪水で被害を受け北海道に疎開して
新十津川村を母の玉置家方の叔父などで開拓したようです。
音無家の方でも、神社復興のため、
音無牧太という方が家来を連れて京にのぼり、
天皇から復興のためのかなりの資金援助も受けたことが
文献に記載されております。その記載には
後藤象二郎や西郷吉之助(西郷隆盛)の名前も記されておりますので
親交があったのかもしれません。

母自身は、幼い頃から字がうまく、
当時の宮家である梨本宮様から立派な硯(すずり)を賜り
奈良県からも表彰されました。
その後、地方裁判所において書記として働いておりました。
母も戦争の悲惨さを経験しており
絶対に戦争は嫌だと心の底から話しておりました。
母の親戚も、戦時中に陸軍で亡くなり叔父も海軍で亡くなっています。
音無家の地元の小さな村からも何人もの20代や30代の方が
ほとんど昭和20年に亡くなっています。
沖縄の伊江島での米軍との戦争で亡くなってたり
レイテやビルマ、中国など世界各地で戦死し
知り合いの方も特攻隊で亡くなっており
その方の名前が功という方だったそうです。
戦争の実体験者が続々亡くなっています。
机上の議論ではない体験者の話は本当に貴重だと思います。


日頃の母がよく話してくれたことは、
一、負けるが勝ち。
二、人に威張ったり、嫌なことを言ったり絶対しないこと。
(私が東京にお店を出したときも
母が一番頭を下げていたのは、お店の従業員の方たちに対してでした。)
三、人生で死にたくなるときは母自身も3度あったけれど
運命などは必ず変わるので、
悪いときも決して悲観しないこと。などでした。

母の妹も、書道家(野村桃苑)として、
アメリカやアジア、ヨーロッパの一流の美術館(ルーブル等)にも書を展示され
国内だけでなく海外でも賞をいただいております。
書道の本場台湾の書道展覧会でも優勝しています。
姉妹そろって書をたしなんでいたのは
母の父(音無藤吉)のおかげのようです。
その父も治療家であり修験者であったそうです。
以上、先祖といっても7代前の高祖父母でさえ数字上では128人がいるとなり
日本人は皆どこかで血が繋がっていると思われれるのですが
自分が引き継いだ名前の先祖くらいは少しでも調べることは
子孫の義務のような気もしています。
ただ、身内の自慢話のようにもなるので恐縮ですが
今まで、子や孫たちにもあまり伝えておらず
これも必要であるかもと思い、ここにあえて記しておきました。